平戸八景にも数えられる景勝地で有名な、自然に侵食された石橋が観覧でき春は桜、秋には紅葉、羊歯も最高です。
観覧時間:約10分
御橋観音
所在地:平戸市前岳町
交 通:平戸市内から車で約20分程度
平戸市の自然と調和した場所で、周囲の景色や静かな環境を楽しむことができるスポットです。
歴史好きな社員のヒトコマ
御橋観音へ行くことになりました。公園からは歩いてもすぐ、赤茶色(錆びた?)のアーチ橋を渡って登っても行けるそうですが、
私たちは、その少し先から登る路を車で登りました。車で 2~3分で御橋観音寺の駐車場へ到着。
相方の案内で、檀家の方か観光客か、ちらほらと訪れる人の中を、石仏の並ぶ境内に入り奥へ進む。
相方はずっと奥へ歩いて行く。奥の院にでも行くのかと思いつつ後をつけると行き止まりとなり「此処です」という。
岩の壁は洞穴のような窪みがあるがそれだけで厨子のようなものもない。さて、と思っていると「上です」と、また相方がいうので見上げてみると「おおっ、これは…」
「すごかでしょう」頭上 20 メートルくらいの所に、うっそうと木々が茂る岩の両岸に巨大な自然の石の橋(正に橋としか言いようがない)が2本横たわっている。
写真では何度か見たことはあるが、この迫力は実際に見ないと伝わらない。こんな高いところに、しかもこんなに大きいとは思わなかった。
後で調べてみると長さ 27 メートル、幅 4 メートル弱の天然の石橋で平戸八景「石橋」として知られるとある。
遥か昔、一帯は海で、第三紀砂岩の浸食でできたと考えられているともある。
また、境内のシダ群落は国の天然記念物に指定されているとも説明されてあったが、その時は知らなかったこともあり注意して見ていなかったから、
この石橋の迫力に圧倒されてシダについては記憶にない。もっと勉強してから来るべきだった。しかし、石橋を見たことだけで行った価値がありました。
山号は石橋山(せっきょうざん)、御橋観音寺(おはしかんのんじ)真言宗智山派のお寺。伝承によれば、養老年間(8世紀初め)に当時この地を巡行していた行基によって開かれたとされる。本尊は十一面観音坐像とあります。
これは、佐世保市中心部福石町の古刹福石観音(正式には清岩寺、三号は福石山、真言宗智山派の寺院)とほぼ同じ謂れで、福石観音の本尊も十一面観音です。
福石観音の本尊は木彫りの立像です(世に言う、行基一刀三霊の作で、その中の「十一面観世音菩薩像」)。
古い日本地図の行基図は、社会科の教科書か何かで見たことのある方が多いと思いますが、行基菩薩として親しまれる行基とはどんなお坊様だったのでしょうか。
行基、668 年~749 年、奈良時代の日本の僧。国家機関と朝廷が定めた以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じていた当時、禁を破り畿内(近畿)を中心に仏法の教えを説き、
民衆・豪族を問わず困窮者のための施設等をつくり、救済活動・社会事業を各地で行った。人々より篤く崇敬された、とあります。
井上靖さんの小説「天平の甍」の中で行基について以下のように書かれています。
その前に、小説「天平の甍」の舞台は、聖武天皇の天平4年第9次遣唐使発遣が決まり、その翌年遣唐使船が大津浦を出港します。
その中に栄叡・普照・玄朗・戒融の 4 人の留学僧も乗船したのですが、その目的は、日本にはまだ仏教界に戒律がそなわっていなかったため、
適当な伝戒の師を招請するという大きな役目を担っていました。航海するだけでも命がけの使命でしたが、結果として鑑真和上を日本に招くまでに20年の歳月を要します。
鑑真和上も日本への渡航に失敗すること 5 回、疲労などにより両眼を失明するも 6 度目で来日を果たします。その時、鑑真と伴に帰国した留学僧は 4 人のうち普照ただ一人でした。
さて、後に日本初の大僧正となる行基についてですが、小説の文中、留学僧たちが唐へ渡って間もなくの頃、4 人は久し振りにいっしょになって、
会ったばかりの優秀な日本の大先輩、玄昉について話し合う…『三人の話しを黙って聞いていた戒融は、最後に口を開いた。
「玄肪は行基とともに義淵の門だ。年齢も同じくらいだろう。玄昉は入唐して濮陽の寺にはいった。
行基は日本で庶民の中にはいった。玄昉は法相を学んだ。行基は病者に薬を与え、悩める者には祈祷を行った。橋がないところには橋を設けた。
街頭において道を説いた。玄昉は異国において法相を学び、その奥義を究め、学際群を抜いてその国の天子から紫の袈裟をもらった。
行基は乞食と病人と悩める者の先頭に立ち、町から町へ、村から村へと説法して歩いた」ここで、戒融は知らず知らずのうちに興奮してしゃべっていた言葉を切った。
妙にその戒融の口調に気押されたような気持ちで他の者は黙っていた。すると、急に戒融は照れたように笑って、「というわけだ。どちらがえらいか、それは知らん」
それだけ言うと、戒融は普照たちに背を見せ、そのまま歩き出した。』(井上靖著「天平の甍」旺文社文庫より)
先にマンガ「火の鳥鳳凰編」で重要な登場人物として少し紹介した良弁も義淵の弟子であり、大仏殿建立にあたっては行基と協力して聖武天皇を助けたそうです。
小説「天平の甍」の中で良弁が、鑑真と普照を東大寺大仏殿の案内をする場面があります。